色とりどりの草花が咲きそろい、既に初夏のような陽気も感じられるようになりました。
そんな爽やかな季節にふさわしい素晴らしいゲスト、島田史子(しまだちかこ)先生にお越しいただきました。
歌舞伎役者、九世 澤村宗十郎さんの番頭(※) を23年間務め上げ、現在は和粋伝承人(わすいでんしょうにん)として、講演や企画、講師として活躍していらっしゃいます。さらに銀座を拠点とするエステサロン「まゆ月」のオーナーでもあり、和美容のプロフェッショナルでもいらっしゃいます。
実際に多くの歌舞伎役者の方々と交流があり、現場を知る島田先生だからこそ出来る『和と粋の精神』の大変貴重なお話、そして当時の素敵なお写真と共にどうぞお楽しみください。
※番頭(ばんとう)さんとは
歌舞伎俳優さんやその御家の窓口として、チケットの手配やご贔屓の方々のご案内、また取材の手配やスケジュール管理をするマネージャーのような役割の方。
最初の出会い
喜優:久しぶりのKiyuu’s salonですね。ようやく島田史子先生をお呼びすることができました。どうぞよろしくお願い致します。
島田:こちらこそありがとうございます。よろしくお願い致します。
喜優:史子さんは今日は何を着ていらっしゃるかなと思って、お互いに薄色のまさに春の語らいといった装いですね。
島田:私も喜優さん何着ていらっしゃるかなと思っていました。いつも私は濃い色を着ているから、春だし明るいのにしてみようかなと思いました。
編集:お互いを思い合っていらして、とっても素敵です。さてお二人が出会われた最初のきっかけは何だったのでしょうか?
喜優:もう10年ぐらい前ですよね。「武士の食卓」というお殿様が召し上がっていた御料理を研究されている先生がいらして、そのイベントだったかと思います。
島田:その時はちょっとご挨拶だけでしたけど、他でもお会いすることが度々あって、ご縁があるなと思いました。お話するたびにいろんな共通のことがありますよね。
喜優:歌舞伎と日本舞踊、お互い伝えたいことも一緒だったりしますから。
島田:矢来能楽堂での喜優さんの公演(2017年の桃李の會)、にも伺いました。共通のお知り合いも多いですしね。
編集:昨年、京都きもの市場様のイベントで、お二人ご一緒に日本各地を周られていましたね。
島田:はい、喜優先生のご縁で、お声をかけていただきました。
喜優:福岡の対談の時は、ラフな感じでずっと喋っていたんですよね(笑)
島田:そう、お客様も交えてお話が止まらなかったです(笑)
番頭さんになられたきっかけ
編集:さて23年務められた番頭さんのお話を伺いたいのですが、どんな経緯でなられたのか、またお仕事のことなどお聞かせいただけますでしょうか。
島田:私が入った頃はまさに番頭さんといえば、ほとんど男性の方が務めていらっしゃいました。他に60代の女性が2人ぐらいいらっしゃいましたけど、ほぼ男性の世界みたいな感じでしたね。今でこそ衣装さんや、床山さん、小道具さん、付き人さんなども若い女性が活躍するようになっていますけど、当時は20代の女性なんて誰もいない世界に飛び込んだんですよね。
編集:そのきっかけって何だったのでしょうか?
島田:私のはとこが澤村宗十郎と再婚をしたんです。その時に母が「京都の顔見せにいらっしゃるから、歌舞伎を観てお祝いを持って行くけどあなたも行く?」と言われまして。その時まだ学生で、歌舞伎はまだ観たことがないから行きたいと言って観に行ったんです。
その時は確か「河庄」に出てらして、(女方の)小春を演じていました。「歌舞伎ってすごいなぁ。全員男の人で、それであんな儚げでキレイな女性を男の人がやってるいんだ」と。終わって楽屋に行ったら、白いガウンを着たおじさんが出てきてビックリしました(笑)
その後、一緒にお食事に行って、若い子があまり来ないからか色々可愛がってくださいました。京都のよーじやさんでブローチを買っていただいたり。でもまだ学生だったのでその時はそのままになりました。
しばらくして卒業後の進路を考えていた時に、親戚が名古屋でインテリア雑貨のお店をしていて、国内外の食器を扱ったりしていたんです。そちらにすごい興味があったので、4月からそこに入りました。そしたら5月に宗十郎さんが山本富士子さんらとお芝居で名古屋の御園座に来る事に。名古屋での公演は初めてなので、受付を出してお客様にお配りするものがあるからお手伝いが必要だと。その時は番頭さんがたまたまいない時でした。
それでインテリアのお店は私は入ったばかりだったので、まだお店にいなくてもいいから、あなたが1ヶ月行きなさいと任命されたんですね。
番頭のお仕事は最初はもちろんわかりませんでしたが、教わりながらお客様にいらっしゃいませとお迎えしたりしてました。それで楽屋に荷物を取りに行ったりしますが、その時の演目が歌舞伎のようなお芝居だったので、楽屋やモニターから三味線の音が聞こえたりして、それがすごい楽しくて心地良かったのです。お店のお姉さんたちからは「あなた毎日よく疲れないわね、すっごい楽しそうね」と言われて、単純に向いてるのかなとそんな感じでした。
その後、8月に東京で宗十郎の公演があるからまたお手伝いをするよう言われ、名古屋から東京に連れて行かれて、そうしたら宗十郎さんが「お前さんはね、名古屋の店より僕のそばでお芝居のことをした方が向いてると思うから、東京にいなさいと言ってそのまま返してもらえず(笑)、そのまま東京にいることになって。だからわけもわからず番頭になった感じなんです。
番頭さんになられて
島田:その頃は宗十郎のお母様もいらっしゃいましたので、お辞儀の仕方から、お客様への接し方など厳しいながらもすごく教えていただきました。私にとって歌舞伎座はまさに学校でした。
編集:歌舞伎座が学校というのは、島田先生のホームページにも書かれていましたね。
島田:はい、もう本当に歌舞伎の中でいろんなことを学んで、今の私がいます。でも7年くらいで二人は離婚したんです。一応親戚だから番頭は辞めて名古屋に帰ってお店を手伝うかどうしようかなと迷ったのですけど、お芝居の仕事がすごく楽しくなっていたんです。そしたら奥さんが、自分がいなくなって、私もいなくなるときっと宗十郎さんが困るから、ちょっと続けてみて考えたらって言ってくれたので、じゃあ残りますって言った日からのご縁で宗十郎が亡くなるまで23年勤めました。
喜優:史子さんの、幅広くいろいろな気遣いができるところを、宗十郎さんが見抜いていらっしゃったんですね。
編集:マネージャー的なお仕事ももちろんあるでしょうし、またご贔屓さんといった方々からも信頼を得られないとできないお仕事だと思います。
島田:宗十郎の歴代の番頭さんがとても出来る男性で、お客様のことを全部わかっていて、お客様の奥様がいつお誕生日とか、坊っちゃんがいつ入学するとか、いついつお引っ越しがあるというと、必ず手伝いに行ったりとか、そういったことに全て気を遣っていらしたんですよね。うちの旦那をよろしくお願いしますという意味で自分が動いて、だから全然お休みをしてなかったと宗十郎が言ってました。
私にはそこまで出来ませんでしたが、劇場にお運びいただいた時だけでも十二分にお楽しみ頂ける様務めました。
喜優:一丸でおもてなしをされてる感じですよね。
編集:ほぼ毎日、歌舞伎座には行かれてたのでしょうか?
島田:そうですね、チケットをお渡しするお客様が一人でもいらっしゃれば、必ず劇場には行ってました。地方の場合は、そんなに毎日チケットをお渡しするわけじゃないので、行ったり来たりする番頭さんもいらっしゃいましたけど、宗十郎の場合はチケットがない時も 自分の用をしてもらいたかったりするので、1ヶ月ずっと一緒について行ってましたね。
アメリカ公演のお話
島田:当時の海外の公演となると、経費など色々かかるので、行く人は限定されるんです。付き人さんは行けないので、二人のお弟子さんが付き人も兼ねて全部する。もちろん番頭さんは人数には入りません。ただお客様が海外公演ツアーを利用して来られるという場合は番頭さんはそのツアーについて行って、何日か居て帰るということをする方はいらっしゃいました。
それでアメリカ公演の時に宗十郎が「ちかちゃんが行かないんだったら僕は行かない」などと言い出してしまって(笑) その時は中村吉右衛門さんが座頭だったのですけど、吉右衛門さんのところが行かないのに私だけを連れて行くわけにはいかないということになって、番頭二人連れて行っていただきました。だからよく古いお付き合いの方たちからは、「ちかちゃんから番頭が海外にも一緒に行くみたいになったけど、でも今でもあまり行ってないよ」って(笑)
喜優:それはもう番頭さんの歴史に残りますね(笑)
島田:もう宗十郎のわがままというか。でも松竹の方も、宗十郎さんのお世話をする方がいないと大変と思ったのだと思います(笑)
喜優:お話を伺っていると、やはりいろいろな面で信頼をされてないと成り立たないってことですよね。
宗十郎さんのお人柄
島田:番頭さんって実はそんなに楽屋には行かないんです。当時は毎日は行くけれども、朝の挨拶と終わってからお客様をお連れするぐらい。だからそんなに長く楽屋にいることがないので、他の役者さんと接することも割と少ないんです。でも私はしょっちゅう楽屋に呼ばれるんです。今みたいに携帯がないので、楽屋の付き人さんから「旦那がお呼びです」と受付に電話が入るので取り継いでいただくのですが、受付の方たちも「ちかちゃん、また旦那が呼んでますよ」と。それで行くと全然くだらないんですよ(笑) なんとかの美味しいお菓子をいただいたから食べなさいとか。
あと漫画が大好きで、明日発売のものでも当時は路面で雑誌を売ってるところがあって、そこの何時以降に行くと次の日に発売するのも置いてあるって、僕だって言えば売ってくれるからと言われて買いに行ったりしてました。
喜優:良い意味での可愛らしい所がたくさんお有りだった方ですよね。それがすごく芸にも出ていて、私は宗十郎さんのお芝居を見ていると、朗らかにもなるけど泣いてしまうことも結構多くて。役がどうのではなく温かいお人柄が垣間見えるとジワッときてしまうんですよね。
島田:愛嬌がありましたね。
編集:失礼ながらYouTubeでお芝居を拝見したのですが、とても愛嬌がおありで無邪気な方というイメージを持ちました。
島田:そう、もうずっと子供みたいなの。あんなに可愛い人はいませんでした。
喜優:その純粋なところが心に響いちゃって。
島田:ほんわか温かくなる感じね。それは舞台だけではなくて普段も変わらないんです。役者さんの中には、お化粧する時からそのお役に集中して周りもそれに合わせてというパターンもありますけど、宗十郎はずっと喋ってるの。くだらないダジャレだったり、テレビのことだったり、どこどこの何が美味しかったとか。
だから衣装とかカツラとか付けながらずっと喋ってみんなで笑ってることが多かったです。
舞台の袖に行っても長唄さんとかがいたりすると、その人を笑わせたりして喜ばせるのが楽しくなってしまうみたいで。でも泣く芝居の時なんかは、「出です」と言われると、フッと一瞬で役に入っちゃう。
編集:かっこいいですねぇ。
島田:いろいろな方が、歌舞伎の世界って厳しいですよね、大変ですよねってよく言ってくださるんですけど、私は宗十郎のお母様から色々教わっているので、その厳しさがあって今の私があると思っています。
でも、毎日澤村宗十郎という傘の下ですごく楽しくお仕事をしてこれたのは、やっぱり幸せだったなと思うんです。
そういう経験が普通はできなかったりすることだから。役者さんをお呼びしてのお食事の席でも、普通の番頭さんはお食事の場を作って、そこに行って車の手配などはしますが、お食事の席までは行かない場合が多いんですね。でも私は必ず連れて行かれるから、上の役者さんたちからも、ちかちゃんちかちゃんと可愛がっていただいてコミュニケーションを取らせていただきました。
それで今も声をかけていただける。そういった地を、その当時から何気ないことでしたが作ってもらえてたから、今でも守られていたなという感じがすごくします。
編集:23年も続けてこられたのは、島田先生自身のお人柄や行動力といった所もももちろんですけど、でもやっぱりそこには宗十郎さんの大きなお人柄があったんですね。
喜優:お互い自然で、無理がなく分かり合えてる感じがしますね。
週刊誌にマークされていた⁉︎
島田:でも、二人が離婚した時に私が残ったので、いろんなことを言われていたんです。
その頃は同じお家に三人で住んでいたので、私は二人が離婚後はもちろん家を出ました。でも私としてはせっかくお仕事しているのに、そうじゃない目で見られるのも嫌だなという感じはありました。
でも、もうそういうのは超越してるというか。宗十郎は「うちのちかちゃんはね、うちの支配人でしょ、番頭でしょ、それに僕のお母さんでもあり、娘でもある」と普通にお客さんにも言っていたんですね。
やっぱり、もう男性、女性とかじゃない部分で繋がっていたと思います。
編集:ご本人が周りの方々にそう言ってくださるのはありがたいですね。
島田:昔、歌舞伎座の楽屋の公衆電話に、とある媒体から電話がかかってきて、私が「奥さんを追い出して宗十郎をさんを取ったという話がありますけど本当ですか?宗十郎さんにも話聞きたいんですけど」と言われたんですね。
こんなお電話が入ってますと宗十郎に伝えたら「お前さんね、何言ってんだよ。うちは大事なお嬢さんを預かってるのにそんな風に!余計なことを言うんじゃない!」と言って。宗十郎の叔父さんが文春の社長だった時がありまして「うちの三木男おじさんの時は〜!」とか言って、最後に「誰だか分かって言ってんのか!」と普段優しくて楽しい宗十郎が、すごく怒鳴ってて、楽屋口みんながびっくりしてましたね。
編集:最強ですね(笑)
喜優:本当に素敵なご関係。
役者の魅力 昔と今
島田:演出家の先生や昔を知る方から「宗十郎さんみたいな役者は、今いないわね」と言っていただくことがあります。今歌舞伎を見ている方は知らない方がほとんどだけれども、そうやってわかっている方が思い出して言ってくださるのはありがたいなと思います。
喜優:史子先生は長年、歌舞伎の移り変わりっていく様を見ていらしたと思うんですけど、何か感じるところとかありますか?
島田:世間がそうさせるのか、今は行儀が良くなりすぎちゃってるかなという感じがするかな、演技も、普段も。昔の役者さんたちは、自分を押し出す癖が強い方が多くて、それが強烈な個性になって役にもつながっていたりとかありましたけど、今あんまりそれを感じないかなと思います。
喜優:わかる気がします。
編集:今はすぐメディアに書かれたり、SNSで拡散されたりするからでしょうか…。
島田:そうですね。でも宗十郎は普通に「僕ね、カレンダーができるくらいの女性とずっといつも付き合ってるんだよ。それはお前さんね、だってね、僕、女方するでしょ。性格の強い女もいれば、弱い女もいれば、いつも泣いてる女もいる。いろんな女性と付き合ってこそ、この役、この場面の時は、あぁ、あの人の気持ちなんだなっていうのがわかるんだよ」と。
だからそれこそ芸の肥やしとは言わないけれども、たくさんの女性や、たくさんの人間を観察したことが全部、自分の芸の引き出しになるということを言っていたのだと思います。
人と普通に会って、こんにちはと挨拶して会話しているだけでは見えないけれども、お食事に行ったりいろいろ深く知ると見える素の部分てあるじゃないですか。それを知ることによって芸の幅というのが出来るのかなと。今が悪いわけじゃないけれども、お行儀が良くなってきているような気がしますね。
私がいた時代は、テレビに歌舞伎役者が出るのはあまり好まれない時代で、それこそバラエティなんてとんでもなかったんですよね。でも歌舞伎を見る人口が少なくなっているので、若手の人たちがテレビに出て知ってもらわないと、僕たちがお父さんぐらいの年齢になった時に歌舞伎を見る人がいなくなっちゃう、一人でも多くの人に知ってもらいたい、若いファンを開拓しなきゃと、彼らは彼らで一生懸命考えてテレビに出ているんですよね。
喜優:「歌舞伎」っていうジャンルがあるということを、まず知ってもらうという感じですよね。
編集:歌舞伎は古典を守りながらも、若い方に関心を持ってもらえるように、アニメやキャラクターとコラボしたり、アイドルを起用したり、すごいチャレンジをしていらっしゃいますよね。
島田:若手の方々の話を聞くと、それは「古典をしっかり守るためにしている」という思いがある。なので新しいことばかりに進むのではなく、浅草歌舞伎や上方歌舞伎も残していかなきゃという思いがあるのです。
京都で古典を守る為なさった(尾上)右近ちゃんの「河庄」とか、(中村)隼人くんの「女殺油地獄」とか、先般方から細かく教えて頂いた事を一生懸命演じていてすごく良かったんです。
喜優:やっぱり古典の話や演出って、逆に見るとすごく斬新だし「女殺油地獄」は、一度見ると忘れられないです。
島田:新しい試みもありつつ、その後にちゃんとした古典を若い方達に見せるというのはすごい大事な取り組みだと思うし、そしてそこから歌舞伎の面白さを知ってもらえるといいなと思います。
【前編 終わり】
前編から、まさに現場を体感されてきたからこその、大変貴重なお話ばかりでした。島田先生の何でも対応できる素晴らしい柔軟性とお人柄が伺えたと思います。後編はまた驚きの出来事、さらにお二人の熱い想いなど語っていただいております。どうぞお楽しみに。
後編はこちら